2010.07.14
人間 パーカー・ボーン』

 前人未到【ジャパンカップ3連覇】という偉業を成し遂げ、公式トーナメント56ゲームのアベレージ241 と云う信じられないような世界記録をたたき出し、現役でありながらももうすでにセントルイスにあるボウリング博物館の「ボウリングの殿堂」入りを果たしたパーカー・ボーン3世。

 世界のトップ・プロとして自分を勝利者に高めていく異常なまでの集中力・投球技術・スピード・正確さ・レーンコンディションに対する適応力・ボールの選択能力などは、ゴルフのタイガー・ウッズ選手と共にプロ・スポーツマンとして世界の一級品であることは今さら私が語るまでもない。

 しかしながら、パーカー・ボーンの本当の素晴らしさを語るとすれば、テレビ画面やアプローチ上だけでは計り知れない彼の【卓越した、素晴らしい人間性】を語らなければならないだろう。

 20年くらい昔になるだろうか。九州博多で一緒に仕事を終わり、次のセミナー会場がある大阪に移動する移動日の朝。ホテルで朝食後のコーヒーを飲みながらパーカーが遠慮がちに私に言った。

 『田さんに頼みたいことがある、かなえて欲しい』
 『単なる観光をしたいだけで頼むのではないので誤解しないで聞いて欲しい』
 『実は、広島に連れて行って欲しい。興味本位ではなく歴史上の事実として、
 この眼でしっかりと原爆の悲惨さを見て、アメリカの子供たちに戦争の悲惨さ
 とむなしさを伝えたい』

 と、頼んできた。
 幸い移動日としての時間があったので、予約していた飛行機をキャンセルし、レイ・エドワード、パーカーボーンと私は新幹線に乗り換えて、彼らの希望をかなえるために広島にむかった。

 原爆ドーム・原爆資料館を見学したパーカーの眼には涙が溢れていた。同行したレイ・エドワード(現米国Brunswickボール設計部門のトップ)と共に、
『アメリカの子供たちに戦争の悲惨さと無意味さを正しく伝えたい』と言い切る彼らの言葉には、単なる観光客には感じられない本物の人間性を感じた。
『この男とは、きっと生涯付き合う友人になるだろうな』と予感したのはこの時だった。あれからもう25年以上経ったことになる。

 6年前には沖縄にも行った。パーカーとパーカーのお父さん。それに私と妻の4人旅だった。ここでも、いやと言うほど戦争の悲惨さを見学して回り、戦没者の慰霊塔に深々と頭を下げて祈りをささげた後に
『前の第2次世界大戦は誰も勝利者はいない無駄な戦いだったんだね』とパーカーの父がつぶやいた言葉が忘れられない。
 楽しいこともあった。沖縄の親友国場幸博さんの持つプライベートビーチでのジェットスキー遊びは楽しかった。『仕事に遅れるから早くヤメロ』と、叫ばなければならないほどのはしゃぎぶりだった。

 2001年7月にはミシガンのバトルクリークで、ジェイソン・カウチとキム・テレルの介添えで挙式した結婚式に妻と2人で招待されて出席した。
 式の前日に、カラマズゥーの空港にシカゴ経由の2時間遅れで到着した私達を、翌々日に式を控え忙しいなかを、じっと待ってくれて、さらに自分で車を運転してホテルまで送ってくれた彼の温かい人間性は忘れられない。

 結婚式の前夜祭で、レズリーの伯母さんの所有するプライベート湖のほとりでホタルを見ながらPBAメンバーとのバーベキュー・パーティーも楽しかった。白い馬の引くワゴンで現れた2人の結婚式は由緒ある教会で行われ、厳粛で素晴らしい時間だった。

 その夜、ゴルフ場のクラブハウスを借り切っての披露宴は、最後はどんちゃん騒ぎのダンスパーティーとなり終わったのは夜明けに近かった。いやー楽しかった。
4日後の帰国の日にはお母さんのジェーンが空港まで送ってくれて、
『息子のパーカーを今後ともよろしくお願いします』と頼まれた。
いい親子だなあと、あったかい気持ちになったのを昨日の事のように思い出す。

 パーカーの奥さん、レズリーは、ダグ・ケントの奥さんの姉と云う関係だ。
 このハリキリ妹さんが仕切る結婚式と披露宴にはPBA会長やジェイソン・カウチなど200人以上の人が招待されていた。その中には数人の子供たちと知的障害を持つ子供たちも含まれており、参加者全員でパーカーを祝福した。

 パーカーは日ごろから知的障害者や一般の子供に対して、ボウリング・スクールやキャンプなどをボランティアとして行っている。一度ニューヨーク近郊で開催されたPBA主催のジュニア・エキジビジョンにイベントの勉強のためにパーカーに同行したことがあった。そこでは食事をする時間すら忘れて、サインを求める子供たち、レッスンを求める子供たちに終始ニコニコしながら、必ず一人ひとりに声をかけ握手をし写真を撮らせている姿には
『これこそ本物のプロだ!!』と感動を覚えた。正午から始まった仕事が終わり、センターのラウンジでパーカーと共に冷たくなった1枚のピザを半分ずつありつけたのは真夜中。それでも彼の顔は仕事をなし終えた満足感にあふれていた。

 こんな事もあった。2002年大分の日田でファンクラブの仕事を終えたあとの食事会でのこと。テーブルが2箇所に分かれていたステーキハウスで、彼は自分とは別のテーブルのファンを気の毒に思ったのだろう。コックさんのユニフォームと白い帽子を借りて着込み、コックさんに成りすまして飲み物を注ぎ、ステーキを切り分けサービスをして回りだした。参加者の方々はビックリ仰天、大うけに受けてその場が大いに盛り上がった。天性のプロ根性を感じたディナーであった。

ボウリングが強いだけではない。パーカーボーンはこんな男である。
彼は常日頃から

 『ボウリングと云うスポーツは子供たちを健康にし、
            思いやりのある心を育み、人間性を育てる』

と言い続けて私と共感している。

 彼は私より30歳若い。しかしプロ・アスリートとしても指導者としても彼から学ぶことは多い。今後も、彼とは力を合わせて本物のジュニア育成を続けて行きたいと考えている。

 彼と付き合っていると、左腕から繰り出される切れ味鋭いあのパワーボールからは考えられないほどの優しさや思いやり、プロとしてのサービス精神と厳しさを随所に見ることが出来る。こんな素晴らしいスポーツマンを仕事のパートナーとして、国境を超えて家族同士の友人に持っていることは私の誇りである。

田 誠  

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