2015.10.26
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今日ヤット親友 すみ光保 の遺骨の埋葬を終えてすがすがしい気持ちでいる。これであいつも本当に天国に逝っただろう。 すみ君とは半世紀にわたる永い永い家族同士の付き合いだった。 彼と初めて会ったのは、昔池袋のスケートリンクの上にあったボウリングセンターだった。 それから数年後にはビジネスパートナーとして、渋谷電業ビルの地下で、故加藤義秀さんを中心にして、ボウリングのルール作りや、ボウリングマガジンと言う月刊誌の製作に情熱を燃やす仲間となっていた。 その後、数年のブランクがあり再会した時にはすみ君は日本ブランズウイックの専属プロとして大スターとなって、インストラクター教育のセミナー講師としで全国を駆け回っていた。当時小生は岡山のボウリングセンターでドリルを担当していたが、すみ君の |
『こんなところでくすぶっていないで東京に出てきて、 一緒にもっと大きな仕事をしよう』 |
と云う鶴の一声で、ブランズウイックのドリルクリニックの講師をおおせつかった。 1966年の第1回ブランズウイックワールドオープンには、すみ君は日本プロチームの監督として、小生はテクニカルサポーターとして、シカゴのノーザンボウルに参加したことも、今では懐かしい思い出となった。韓国・ハワイ・グァム・ロスアンジェルス・シカゴ・サンフランシスコ・カウアイ島・沖縄等々楽しい旅を共にした。 その後小生はアメリカブランズウイックと三井物産とのボールデザイナーとして契約・活動できたのも、すみ君のフォローあってのことと感謝している。 その間、プロ協会の改革、全国ブランズウイック会の運営も一緒に行った。 米国のダン・ローシャンとともに当時のブランズウィックナゴヤにカンヅメ状態で実験をくりかえしながらLTBの日本版作りに情熱を傾けた事もあった。 小生の56年間に渡るボウリングビジネスの何処を切り取ってもすみ君の協力を感じる。こんなに素晴らしい仲間を持った事を誇りに思うと共に、いつかどこかでもう一度会いたいと心から思う。 日本のボウリング業界のすべての人たちが忘れてはいけない人間。 鷲見光保 君 本当に有難う。 誇らしい友人だった。 |
合掌 田 誠 |
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